安政2年(1855)、貢姫さまは17歳で川越藩主の松平直侯公と結婚しますが、わずか6年後の文久元年(1861)に直侯公が亡くなります。その2年後の文久3年(1863)、江戸の情勢不安などから貢姫さまは江戸から川越へ下国することになります。これ以降、貢姫さまは2年ほど川越で暮らしますが、知らない土地で暮らさなければならない娘を励ます内容のお手紙を直正公は送り続けます。
次にご紹介するのは文久3年10月7日付で、貢姫さまが川越で暮らしはじめてから7か月ほど経ったころに直正公が送ったお手紙です。
【翻刻】
「御地も俄ニ冷気に相成候よし、けしからぬ不順之時かふニ御座候、八月廿五日ニは今福むらとやらへ被参候由ニて、茸狩いたし候由、嘸々面白き事と存、浦山敷存まいらせ候、大庄屋何れもきれゐニ候由、江戸近くニ而嘸々見事の事と存参らせ候、且又、梅吉始も廿八日ゟ上り候由、皆々打揃ひ嘸々面白き事と、大浦山敷存参らせ候、御地ハ当表抔と違ひ、江戸近くニ而候ゆへ、何事も面白き事計り、奥(筆姫)抔ハ大浦山かりニ而御座候、必ス必ス川越をいや抔とは被申間敷候」
【現代語訳】
「川越も急に冷え込んできたそうですね。八月二十五日には今福村(現在の川越市)へ出かけられ茸狩りをしたとのことで、さぞかし面白かったことと羨ましく思います。大庄屋はいずれも綺麗だったとのこと、江戸の近所ですからさぞかし見事なものだろうと思います。また、梅吉らが二十八日から参上しているとのことで、皆揃ってさぞかし面白いことだろうと本当に羨ましく思います。川越は佐賀などとは違って江戸の近所ですから何事も面白い事ばかりで、筆姫(直正公室)などは大そう羨ましがっています。絶対に川越をイヤだなどと仰ってはいけません。」
この後も自身の近況や贈り物へのお礼などが続きます。早くに夫を亡くされ、見知らぬ土地で暮らす貢姫さまは不安な気持ちでいっぱいだったことでしょう。そんな中、お手紙を通じて貢姫さまの川越での生活を感じていた直正公は「きっと川越はいいところなのでしょうね」と娘を励まし続けました。また、別のお手紙では「(川越は)江戸とも近い所なので、参府の折には江戸で面会もできるでしょう。楽しみにしてます」とこれまでと変わらない様子を伝えています。
元治2年(1865)正月、貢姫さまは川越から江戸へ移られ、約2年ぶりに江戸での生活が始まりますが、その3年後の慶応4年(1868)には政情不安のため佐賀に帰ることになります。貢姫さまにとっては7歳で江戸へ出て以来、約23年ぶりの帰郷となりました。