ある日、川越藩邸に住む貢姫さまから、佐賀藩邸の直正公の元へお重が届けられました。今回はその時のお手紙をご紹介します。
冒頭には、貢姫さまから届いたお手紙を読んで、降雪の寒い時期ながら、ひとまず無事に過ごしていると知った直正公の安堵の言葉が記されています。
それに続けて、
「思いも寄らず、見事な御重を(佐賀藩邸に)届けてくれ、すぐ昼飯に食べました。また、残しておき夜食にも食べようと楽しみにしています。」
と、思いがけない差し入れへの感謝が綴られています。お昼だけでは食べきれないほど豪華なお重だったのか、あるいは一度に食べるのがもったいなくて、あえて残しておかれたのかもしれません。どんなお料理だったのか、気になりますね。
それに続けて、今度は直正公が、
「この品はとくに粗末なものですが、御重のお礼までに差し上げます。」
と、何かお礼の品を贈られているようです。続いて「十二月六」の日付のあとには、
「奥(筆姫)は雪のためか少々癪気で(体調が悪く)、温石などで用心しているところです。私は至って達者で、これから馬に乗ろうと思っています。」
とあり、直正公の正室・筆姫さまの体調や直正公ご自身のことを伝える文言で締めくくられています。
名筆としても知られる直正公の躍動的な筆致も見どころです。「夜食」の二文字は特に大きくのびのびと書かれ、嬉しさがにじみ出ているように思えます。お手紙の内容だけでなく、心情を思わせる字形の面白さも、自筆のお手紙ならではの魅力です。 |
お手紙には「十二月六」の日付が記されていますが、内容から推察すると、安政2年(1855)の12月6日のことと考えられます。同年の10月2日、大地震(安政の大地震)により、桜田にあった佐賀藩上屋敷(藩主や正室が住む屋敷)が焼失してしまったため、直正公は一時的に溜池の中屋敷に移り住むことになりました。
すると、ちょうど貢姫さまの住む川越藩上屋敷と道一本を隔てたお隣同士になったのです。
参勤交代と長崎の警備のため、直正公が江戸に滞在できる期間は長くありません。お手紙のやりとりが確認されている期間は13年間にわたりますが、このうちお二人がともに江戸にいた期間を合計すると、わずか1年にも満たないのです。なお、佐賀で書かれたお手紙は161通に及びますが、江戸で書かれたものは25通です。
今回ご紹介した「お重の差し入れ」のお手紙は、いつも離ればなれだったお二人が「お隣さん」として過ごした貴重な時期のものです。江戸で書かれた25通のなかには「この間はゆっくりと対面でき嬉しく思いました」、「次に会う日を楽しみにしています」とあり、お互いの屋敷を訪問し合っていたことも分かります。
*(参考)直正公・貢姫様 贈答品一覧(徴古館「愛娘への手紙」展より)
今回の貢姫さまからの「お重の差し入れ」以外にも、お互いに様々なものを贈られていたことが分かっています。
例えば、直正公からは佐賀の焼物やお菓子、お花、精煉方で作られたガラス製品など。貢姫さまからは川越産の干うどんや蔦蔓、佐賀にいる妹へのプレゼントなど。贈り物自体は現存しませんが、お手紙の内容から知ることができます。
*(参考)料紙一覧(徴古館「愛娘への手紙」展より)
「お重の差し入れ」のお手紙の背景には、雪持ちの花の模様が入っていましたが、他にも様々な料紙が使われています。
これらの料紙は当時の市販の書簡箋巻紙で、絵柄は木版摺です。巻紙ですので、文章を書き終えた箇所で裁断して用います。なかには江戸の紙商「榛原(はいばら)」または「金花堂」など系列店の品とみられるものもあります(★印のついているもの)。なお、「榛原」は今も東京・日本橋で紙商を続けられています。
また、直正公は佐賀に滞在中、「封筒の残りが少なくなって困っていますので、金花堂の良さそうな封筒を送ってください」と、江戸にいる貢姫さまに手紙で頼んでおられます。
貢姫さまは、内容はもちろんのこと、絵柄も楽しみにお手紙を巻き広げたことでしょう。