直正公には、お住まいの佐賀城のほかにいくつかの御茶屋(別邸)がありました。その一つが、弘化3年(1846)に造営された神野御茶屋(現在の神野公園)です。ご家族でのお花見のほか、藩士や藩外の人と親交を深めるときにも用いられました。貢姫さまへのお手紙にも、神野御茶屋の話題が数多く登場します。
安政5年(1858)は特に藤の花が見事に咲いていたそうです。3月15日(新暦4月28日)付のお手紙には、藤棚をご覧になった時の感動が綴られています。
【翻刻】 「…(前略)…神の花、当年は殊外よろしく、又藤の花、殊外よろしく、一両日中ニ皆々参り候筈御座候、藤棚凡百五十間四方位ニ相成、其見事ナル事、筆ニてゑニ而もかゝれ 不申候程ニ候て、見せ度至と存居候…(後略)…」 【現代語訳】 「…(前略)…神野茶屋の花は、今年は特によく、藤の花が特に素晴らしく、一両日中には皆で出かける予定です。藤棚はおよそ百五十間四方くらいになり、その見事な様子は、書でも絵でも表せないほどで、(貢姫に)ぜひ見せたいと思うくらいです…(後略)…」 |
また、安政4年4月5日付のお手紙には、次のような内容が記されています。
【翻刻】 「…(前略)…此頃ハ庭の花も咲りニ而、日々花見いたし、神の江も此間皆々一同参り楽しみ申候、近日ハ神の茶や御庭を市中其外見物申付、昨日ハ日々壱万八千人余ツヽ拝見ニ参り申候ニ而、皆々通り見物其外賑々敷事ニ而候…(後略)…」 【現代語訳】 「この頃は(佐賀城本丸の)庭の花も盛りを迎え、毎日花見をし、神野茶屋へもこの間、みな一同で出かけ楽しみました。近日は神野茶屋のお庭の見物を城下の町人などに申し付けたところ、昨日は一日で一万八千人あまりも見物に来たようで、みな通り見物などをして賑やかなことでした…(後略)…」 |
ご家族と四季の移ろいを感じ、その感動を江戸の貢姫さまとお手紙で共有しました。毎年の春には神野御茶屋の一般開放を行い、身分を問わず老若男女を受け入れました。直正公は、季節の楽しみを独占することなく、領民とともに分かち合われたお殿様でした。