天保元年(1830)、直正公は17歳で10代佐賀藩主となります。文久元年(1861)に48歳で隠居するまでの30年間の在任期間で、数々のお仕事をされました。それでは隠居後はどのようなご様子だったのでしょうか。貢姫さまへのお手紙では時折その胸の内をこぼされています。
息子の直大公が藩主となった後、直正公は軍事面など若い直大公をサポートしつつも、少数のお供だけで馬でお出かけしたり、家族と神野御茶屋に行ったりとのんびりとした隠居生活を送っていました。その一方で幕府から上京(=京都へ行くこと)を命じられるなど、隠居の身でありながらも忙しい日々を過ごしており、文久3年(1863)9月のお手紙でその胸の内を貢姫さまに吐露しています。
【翻刻】 「さてハ、爺事御用被為 在候由ニて、上京被 仰付、難有御事御座候、しかし只今不容易御時勢、実ニ心配之御事、難有申立候御事御座候、しかし、難有御事候付、何れ不遠内上 京いたし候御事と、支度のみいたし、取込居申候、隠居ハ楽なるものと存候処、誠ニ誠ニ急かしく、大困りいたし参らせ候」 【現代語訳】 「さて、父は御用があるとのことで上京を命じられており有難いことです。しかし現在は大変なご時勢ですので、実に心配です。いずれ近いうちに上京するので(今は)その準備で立て込んでいます。隠居の身も楽なものかと思っていましたが、実に忙しく大いに困っています。」 |
また、別のお手紙では次のように書かれています。
【翻刻】 「又々、長州大騒動之やうニ而、諸国の軍勢皆々はせ上り候由、公方様も芸州広島迄音出馬と申ス事ニ而、此方人数も近日ゟ繰出候筈ニ御座候、来月五日ニは、弥長州へ攻入候筈と申ス事ニ御座候得共、如何相成可申や、又々はなし計りニは相成間敷やと存参らせ候、兎角穏ニいたし度」 【現代語訳】 「また長州大騒動が起こるようです。諸藩の軍勢が挙って出陣しているとのこと、公方様(将軍家茂公)も広島までご出馬されるそうで、佐賀藩の軍勢も近日より繰り出す予定です。(家茂公は)来月5日には長州へ攻め入る予定だそうですがどうでしょうか。とにかく平穏になってほしいとばかり願っています。」 |
幕府は慶応2年(1866)6月に第二次長州征討を行います。結果として、8月の将軍家茂公の死去を受けて佐賀藩は筑前までの出陣に留まりました。これはその直前、5月29日付のお手紙です。直正公は「とにかく平穏になってほしい」と日本国内の状況を憂いているお気持ちを貢姫さまには素直に伝えられています。隠居後も何かと気苦労の多いご様子だったようです。