第12回 歴史を活かしたまちづくり

 前回(第11回)は50年間の町づくりの集大成と言える承応3年(1654)の絵図(絵図⑤)に初代藩主鍋島勝茂公が押印とともに添えた「遺言」をご紹介しました。その後、この想いは歴代藩主によってどのように引き継がれたのでしょうか。


①慶長御積絵図(慶長年間/1610年頃)


⑤承応佐賀城廻之絵図(承応3年/1654年)


②寛永御城并小路町図(寛永3年 8月5日/1626年)


③正保御城下絵図
(正保年間/天保3年=1832年書写)


④慶安御城下絵図(慶安2年/1649年)

86年後の絵図に添えられた言葉

 勝茂公の跡を継いだ2代光茂公「勝茂様の印が押された絵図」(承応絵図のこと)を大切に扱うよう命じるとともに、元禄年間に新しい城下絵図を作成したようですが、残念ながら現存していません。(※1)

   


⑥元文佐賀城廻之絵図(元文5年/1740年)


元文佐賀城廻之絵図の表紙


元文屋敷帳の奥書

 

 承応絵図の次に現存するのは86年後、6代宗教公の時代にあたる元文5年(1740)の絵図です(絵図⑥)。宗教公はこの絵図に9月23日付で次のような文言を添え書きしています。「佐賀城下絵図が仕上がったので印判を押して渡します。今後は町人地・武家地(小路)や堀・川など、この絵図に相違ないようにしなさい。もし変更が生じる場合は私まで報告しなさい」(※2)。つまり勝茂公が承応絵図に添えた言葉(第11回)をほぼそのまま繰り返すことで、「町の姿を変えない」という原則を再確認したのです。 

 また約1,000箇所ある武家屋敷地の一軒ごとの大きさ、道路・水路幅の測量結果を詳しく記載した屋敷帳(第9回)にも、同日付で宗教公の印が押されています。(※3)

 この絵図と屋敷帳は、6年前にあたる享保19年(1734)に、5代宗茂公が「勝茂公の印が押された絵図(承応絵図)があるが、小路(武家地の詳しい)絵図が無いため、小路・町人地・堀境・溝渠などまで詳細に記すように」と命じていた事業の完成にあたるものと思われます(※4)承応絵図を引き継いだ上で、それを補う測量事業と帳簿作成が行われたのです。

  

 屋敷帳はその後、「控」にあたる明和屋敷帳が8代治茂公の時代に作成され(※5)、それ以降、水路幅や屋敷割り、居住者などの変更が生じた場合は、この帳簿に赤色の文字で書き継がれ、明治初年頃まで用いられました。また、最も新しい絵図としては、9代斉直公の時代にあたる文化年間(1810年頃)に作成されたものが現存しています。

  


⑦文化御城下絵図(1810年頃)



幕末の基準となった絵図

 10代直正公が軍事や科学技術のための新しい施設を設けたことは有名ですが、築地反射炉多布施反射炉精煉(せいれんかた)神野御茶屋などは、すべて城下に近い場所ですが、城下の範囲内には作っていません。勝茂公以来の「町の姿を変えない」という方針を受け継いでいたためでしょう。

 それがよくわかるのが、城下補修の土木工事にあたり、安政2年(1855)に行われた絵図の検討です。「勝茂公押印の承応絵図と宗教公押印の元文絵図は担当部署に保管されているが、江戸初期の姿と異なる箇所がある。最初の慶長絵図(①)も残されているが計画図らしい」。そこで直正公は、「(慶長の次の時期にあたる)寛永年間正保年間の絵図を基準に定めて工事を行うように」と命じました(※6)。寛永も正保も、初代勝茂公の時代に作成された城下絵図です(絵図②)。

 

江戸時代を通じて受け継がれた想い

 佐賀城下というひとつのまちで藩の政治が行われ、数万人の人々が暮らし、旅人が街道を行き交えば、200年以上も敷地の区画や水路の幅がひとつも変わらないということはありません。ただ、初代藩主が示した町づくりの趣旨は、その後の200年もの間、歴代藩主により意識的に受け継がれてきたのです。

 「町の姿を変えないこと」を大原則とし、「変えること」を藩主決裁事項にしたということは、あの水路を埋める、この敷地を分筆するなど、一つひとつの変更の意味や目的、後世への影響を毎回きちんと吟味する体制だったということです。その背景には、佐賀藩主が替わることなく、江戸時代を通じて鍋島家という同じ家が担い続けたこともあるでしょう。
 

現代に引き継がれた城下

 単に変わらないこと、単に昔の姿に戻すこと自体が尊いのではありません。これからの佐賀のまちのことを、少しでも多くの人が歴史を踏まえて考え、互いに意見し合うことが大切と思います。

 260年続いた江戸時代が終わり、社会の価値観が大きく変わった近代となって、まだ150年しか経っていません。第1回の「重ね図」に表われているように、今も佐賀市中心部の町割りは、江戸時代の道筋、水路や川をベースに成り立っています。建物は近代化し、車社会で道幅は広がり、上下水道が整備され多布施川の水を直接、口にすることのなくなった現代は、建物の形、道や川の役割が変わったために気づきにくいだけで、町割りは見事に引き継がれているのです。

 それは、現代を生きる私たち佐賀市民にとって、佐賀城下という同じ大地に先輩たちが刻んできた、いわば事例集です。それが今も地割りに残っていることと、絵図や古文書でその意味や移り変わり、先輩たちの考え方を知ることができることは佐賀市の財産です。そのような大地の上で暮らすことは佐賀市民の誇りと言ってよいでしょう。

 

 

 

典拠史料

※1 「初代勝茂様の印が押された絵図」
「泰盛院様(初代勝茂公)御印これ有り城廻ならびに道絵図弐品、新絵図弐品、都て四品渡し置き候条、猥り無きよう念を入るべき事」 ※「里山方并道屋敷方写(「光茂様里山方并道屋敷方写」所収)」公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋島家文庫/鍋326-115)/『佐賀城下法令史料集』p.118、公益財団法人鍋島報效会、平成26年

※2 元文佐賀城廻之絵図(絵図⑤)に6代藩主宗教公が記した言葉
「佐嘉城廻之絵図仕立て差し出し候につき、印判を加え相渡し候。向様、町・小路・堀川筋など、この絵図相違無きよう仕るべく候。自然相替る儀これ有るにおいては、我等へ申し聞かすべき者なり。元文五年申九月廿三日 宗教」元文5年(1740) ※「元文佐賀城廻之絵図」元文5年(1740)、公益財団法人鍋島報效会所蔵
「最前御城下御絵図取り立て岡部宮内・千葉八左衛門・鶴七右衛門・竹下八兵衛へ仰せ付け置かれ、その末成就に相成り、今日右御絵図御裏書左の通り御印渡し下さる」 ※「重茂公御年譜」元文5年(1740)9月23日条、公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋島家文庫/鍋113-67)/『佐賀県近世史料』第1編第4巻p.426、佐賀県立図書館、平成8年

※3 元文屋敷帳(城下大曲輪内屋敷帳)に6代藩主宗教公が記した言葉
 「城下大曲輪内屋敷、今度改正せしめ、帳面見届け畢んぬ。後證のため印形を加える者なり。元文五年申九月廿三日 「宗教」(円形黒印)」  ※「城下大曲輪内屋敷帳」元文5年(1740)、公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋島家文庫/鍋832-2)

※4 5代藩主宗茂公が絵図の製作を指示
「御城下御郭絵図、泰盛廟(初代藩主勝茂公)御印を以て大御目附方へ相渡し置かると雖も、小路絵図今にこれ無きに由て、小路・町方・堀境・溝渠等の事まで委しく絵図に記載すべき旨、大御目附へ仰せ出さる。」享保19年(1734) ※「宗茂公御年譜」享保19年(1734)2月21日条、公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋島家文庫/鍋鍋113-12)/『佐賀県近世史料』第1編第4巻p.373、佐賀県立図書館、平成8年

※5 8代治茂公の時代に屋敷帳の控えが作成される
「今度小路屋鋪沽券状、銘々相調え番附改正致し、御先々代(6代藩主宗教公)差し出し置かれ候御印の屋鋪御帳(元文屋敷帳)ならびに沽券状を以て新たに屋鋪控帳相調(ととの)え、入れ替わりこれ無き屋敷は元沽券状に裏書致し差し出し候。向後、屋鋪主居替り沽券状差し出し候節は、屋鋪境・堀・畔・間尺等、売主・買主立ち合い能く相改め、違所の有無、書き付けを以て相達し候よう。尤も間尺そのほか相違これ有る屋敷の儀は、役筋より相改め申すべく候」明和8年(1771) ※「屋鋪御帳扣(明和屋敷帳)」公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋島家文庫/鍋832-3)

※6 10代直正公時代に歴代の絵図を比較検討
「大曲輪御修補の儀、以来寛永・正保の御絵図に因り取り計い候よう仰せ出さる。
附り、御備立方伺書  慶長年中御城御創業の始め、御深慮を尽くし成され候儀にて、元御差図と申し伝え候御絵図、役内へ御囲いこれ有り候得共、御差図の通り御修補御座無き儀を相考え候処、元和ころより静謐に相成り、御目論見通り御成就に相成らず、これに依り、寛永・正保の通り御修補に相成り居り候。総じては、その後、承応・元文両度御印御絵図(勝茂公の印が押された承応絵図と、宗教公の印が押された元文絵図)、里御山方へ相渡し置かれ候得共、所に依り初発御創業の御趣意相叶わざる哉に相考え、右は自然と地変の姿を御絵図取り立て相成り候儀と相見え、一体、正保二年の御絵図は公納に相成り候趣、旧記にもこれ有り候。然る処、その後、御土居ならびに堀の儀、場所に依り御修補御行き届かれざる哉にて形容相替り、満塞欠け崩れなど多々これ有り候につき、先年来、役々立会い見分相調え、前断公納の御城下御絵図扣に相寄せられ、御土居・堀の修補相整えらる方に御座有るべく吟味を遂げ、去る嘉永元申年、外向き相達し置き候末、妙安寺小路・川原小路八間堀を始め、築地ならびに八戸北裏、さてまた長瀬町西念寺東裏まで御土居修補相整え、右場所より西本庄町井樋の上まで、御定め通り堀方相調え候半で相叶わざるの処、家建て解き除けなどの場所も御座候につき、左に書載の通り、正保の御絵図に相寄せられ御修補仰せ付けらる方には御座有る間敷き哉。尤も御見合わせのため、右の御絵図に地変の振り合い懸け紙相整え候御絵図一紙、ならびに道祖元町裏切絵図一紙相副え差し上げ申し候」 ※「直正公譜」安政2年(1855)7月10日条、公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋島家文庫/鍋113-38)/『佐賀県近世史料』第1編第11巻p.240、佐賀県立図書館、平成15年

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