前回(第8回)では、武士と町人の居住地の違いを紹介しました。今回は城下絵図を虫眼鏡で見るかのように、ひとつの屋敷の敷地をググッと拡大して見ていきましょう。
下の図は、現在の水ヶ江4丁目にあたる小路(武士が住むエリア)の一角。龍谷学園前から南に進んだところにある「横小路」という交差点付近の、「川瀬孫之允(丞)」というお武家さんを世帯主とする屋敷です。
当時の地番は「虎次竪小路 東側五番」。佐賀城下では、東西方向の道路のことを横小路(よここうじ)と言い、南北の道路を竪小路(たてこうじ)と言います。龍谷学園の前付近から横小路交差点付近までの南北道路は、江戸時代は「虎次竪小路」と呼ばれていました。この道路に面した11軒の屋敷の集合体のことも、いわば、ひとつの班のように「虎次竪小路」と呼ばれました。
絵図を見ると、道路を挟んだ西向いの「城嶋」家の屋敷も川瀬屋敷と同等の広い間口(まぐち)をもつ様子がうかがえます。第8回で紹介したように、虎次竪小路は下級武士は居住禁止とされていたエリアのひとつです。川瀬孫之丞はお役人、城嶋家はお医者さんで、格式の高い地区に住んでいたわけです。それに対し、川瀬屋敷の東や南の小さめの敷地は「虎次東横小路」という名前の別の小路に属しており、下級武士も自由に住むことができる小路でした。
では、川瀬屋敷の敷地面積はどのくらいだったのでしょうか。参考となるのが、明和8年(1771)に作られた屋敷帳(明和屋敷帳)です。武家屋敷1ヵ所ごとに、大きな文字で敷地の四辺の長さ、小さな文字で敷地に接する道路や水路の幅の測量結果が、当時の間(けん)・尺・寸の単位で記載された台帳です。
この敷地は道路が西にある、つまり間口は西側です。絵図の世帯主名は、間口の方向に文字の頭を向けて書かれています。そのため屋敷帳も「西口」から起筆され、次に反対側の「東裏」、敷地の奥行にあたる「北入」と「南入」の順序で4辺の長さが記されています(上図参照)。仮に一間を2mとみなすと、敷地面積はおよそ2,210㎡=669坪の計算になります。
次に4つの方角それぞれに書かれた小さな文字をみると、まず西は、面する道路幅が約7m(3間4尺)あり、敷地が「塀」で囲まれていたことがわかります。この場所から500mほど北に現存する武家屋敷の門のようなイメージだったのかもしれません。
次に、西を除く3辺は堀に面していることが絵図で分かります。屋敷帳を見ると、東と南は堀に面して畔に竹を植えていたことがわかります。南の「堀」に対し、東と北は「流堀」と書かれています。南側はどん詰まりの堀ですが、図中に橋や井樋(いび/樋門)が見えるように、橋の下や樋門を水が通る仕組みになっていますから「流堀」と呼ばれます。屋敷と屋敷の間に水網が張り巡らされ、水が滞ることなく流す仕組みを作ることによって生活用水としての機能を維持していました。
このように屋敷帳は、約1,000軒あった武家屋敷一つ一つの生活環境が細かい数字とともに見えてくる土地台帳と言えるものです。
徴古館では、元文と明和という2つの時期の屋敷帳を活字化した史料集を頒布しています。また「竜校前」バス停脇には、令和2年に佐賀市役所により「虎次竪小路」の説明板が建てられましたので是非ご覧ください。