水のまち佐賀では、水の役割によって「川」「江」「堀」など複数の呼び方がありました。「川」は山から流れてくるもので、有明海の潮の満ち引きの影響を受ける「江」や人工的に掘られた「堀」とは区別されてきました。「川」は、城下の暮らしを支えた水と言えます。潮水が混じる「江」や、水が滞る「堀」は生活用水には不向きだからです。前回は「堀」のひとつとして十間堀(じっけんぼり)を紹介しましたが、今回は「川」を見ていきましょう(次回は「江」について)。
城下に生活用水をもたらした川が多布施川(たふせがわ)です。初代藩主鍋島勝茂公の時代、治水事業に長けた成富兵庫茂安が設けた石井樋によって嘉瀬川から分水された川です。農村地帯に水を配り、城下の暮らしを支え、さらに南部の農村部を潤し、やがて有明海に注ぎます。 広範囲に水を配るため、多布施川の流路は佐賀城下だけで24回も曲がっています。飲料水にも利用される水を各屋敷に届ける支流や水路が網の目のように発達しており、ゴミを捨てない、幅を狭めないなどの規定がありました(※1)。毎年春、石井樋を堰き止め川干を行い、水路の底に溜まった土砂やゴミを浚う作業は住民の義務でした(※2)。協力しない場合、武士は給与から天引きされる罰則規定もあるなど(※3)、水質の保全に気が配られていました。石井樋から城下入口までの多布施川の長さは約6km。この区間の川沿いには、多布施川河畔公園として緑地帯が整備されており、四季を通じて散策やジョギングのコース、憩いの場として楽しむことができます。 |
幕末、佐賀藩は大砲を鋳造する反射炉を2ヵ所に設置しました。築地(ついじ)反射炉は天祐寺川(てんゆうじがわ)沿い、多布施(たふせ)反射炉は多布施川沿いに設置され、川を使った水車の動力で大砲の穴を刳(く)り貫きました。
10代藩主鍋島直正公が長女貢姫(みつひめ)に送った暑中見舞いには、多布施川に納涼の舟を浮かべ、鮎や鮠(はや)、鰻(うなぎ)などの魚とりを子供と一緒に楽しんだ様子が綴られています(※4)。直正公が造営した神野御茶屋(現・神野公園)の園内には、「お茶屋井樋(いび)」から分水した多布施川の水が引かれています。
幕末に佐賀を訪れた熊本藩士は、石井樋から舟で多布施川を下り、城下の多布施町で下船したと日記に記しています(※5)。多布施川の城下の入口にあたる多布施町には、北の山から竹や薪などが届き、市が毎日開かれた時期もありました(※6)。多布施川は人や物を運ぶ交通・物流の役割、自然と憩う娯楽の要素も兼ね、時には工業用水として藩の軍事産業も支えたのです。
川は、水とともに土砂も運んできます。多布施川の川底にも次第に多くの土砂が溜まり、江戸時代の後半には深刻化しました。水深が浅いと水量が限られる上、大雨時はすぐ溢れてしまうからです。洪水が頻発すると田畑の土壌が冷えます。不作となって住民は苦しみ、税収が減ると行政も困ります。通船にも悪影響です。
そこで罪人の人力で土砂を掘り上げ、土砂を川舟で城下に運び込み、現在の護国神社前あたりの川端に陸揚げ。城下の道路補修などのため希望者には土砂を販売し、藩はその収入で土砂運搬用の川舟をさらに増産するという持続可能な循環型の仕組みがとられました(※7)。川の水深を確保し、道を造成し、罪人を矯正するという一石三鳥の政策です。
江戸時代、城下の住民たちは自分の屋敷周りの川浚い作業を担いました。一方、藩はそれを奨励するとともに、住民では手の及ばない石井樋や多布施川本体の維持に取り組んできました。
現在、南部への農業用水が別ルートとなり、城下を流れる水量は減少しています。ただ、石井樋は今も現役で、城下を流れる多布施川の流路はもちろん、川幅が江戸時代と変わっていない場所もあります。川が北の山から南の海に向けて流れ、その途中に市街地があるという位置関係は今も昔も変わりません。佐賀市の豊かな暮らしのためには、川浚いなど私たちが一体となって川を維持し、知恵を出し、うまく活用することが不可欠でしょう。
※1 ゴミを捨てない、幅を狭めないなどの規定
「多布施川筋耕作時分、または年により川干落候時、水閊候儀これあり候条、三方門内小路の儀は沙汰に及ばず、小路・町方においても往還そのほか障りに相成らざるように、漸々自分より井泉を掘り立て候よう申し付つべき事。付けたり、多布施川より城内へ流筋の儀は申すに及ばず、惣て城下水道へ穢たる物は勿論、塵埃等に至る迄、一切入れざるよう申し付くべく候」/元禄4年(1691) *「里山方并道屋敷方写(「光茂様里山方并道屋敷方写」所収)」公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋島家文庫/鍋島326-115)/『佐賀城下法令史料集』公益財団法人鍋島報效会、平成26年、p.119
「流れ筋水道の儀、滞り無きよう兼ねて稠しく申し付くべく候。たとい幅広き堀川にても、埋め候てせばめ候儀、停止たるべく候。幅せばく成り候得ば水流の障りに相成り候条、流れ筋に埋所これ有るにおいては、小路方はその屋敷主、また蔵入所はその支配人へ申し届け、急度、元の如くさらへ候よう申し付くべく候」 *「里山方并道屋敷方(「御印帳写」所収)」(鍋320-3)/『佐賀城下法令史料集』公益財団法人鍋島報效会、平成26年、p.128
※2 水路の底に溜まった土砂やゴミを浚う作業は住民の義務
※3 給与から天引きされる罰則規定
「諸小路道普請の儀、去る天保九戌年委細相達し置かれ候通り、その屋敷主より屹度相整え候よう、自然不行き届きの向きは、一先ず道屋敷方御遣料銀の内より雇夫を以て普請相整え、賃銀の儀、役筋相納め候よう、納銀相滞るにおいては知行切米より御取納め仰せ付けらる義に候。川浚えの儀、干落中屹度相整え候よう。自然不行き届きの向きは、市中・郷地はその懸々より屹度手当相成り、小路内の儀は雇夫を以て右条同断」/文久3年(1863) *「触状写」公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋島家文庫/鍋326-69)/『佐賀城下法令史料集』(公益財団法人鍋島報效会、平成26年)p.181
※4 10代藩主鍋島直正公が長女貢姫に送った暑中見舞い
「一昨日は皆々一同、河上より多布施川筋そのほか涼の舟より参り、狩そのほかいたし大楽み致し申し候。子供など別て大よろこび賑々敷にて候。あゆ・はや沢山に取り申し候。鰻(うなぎ)も大総に取れ申し候」 *「貢姫宛て鍋島直正書簡」〔安政4年(1857)〕閏5月18日付、公益財団法人鍋島報效会所蔵/『愛娘への手紙 ―貢姫宛て鍋島直正書簡集』平成30年、pp.76-77
※5 佐賀を訪れた熊本藩士の日記
「象の鼻とかいう所より、川水ふたつにわかれたり。そこより舟をのりかえて左の小川をくだる。こなたかなた松生しげりたり。…(中略)…たふせ町という所より舟をおりて、何某くすしのもとに行きて、しばしやすらいつつ、くれうち過るほどにぞ、古水がりかえりぬる」 *中島広足「佐嘉日記」嘉永7年(1854)3月16日条/彌富破摩雄・横山重校訂『中島廣足全集』第1篇、大岡山書店、昭和8年
※6 多布施町で市が開かれていた
「三月十五日、多布施町罷り在り候香月弥右衛門と申す者より相願い候は、近年諸色殊のほか高価に相成り、只今の通りにては商売の筋にて渡世相成り難く候。已然は多布施町へ北山筋竹木・薪そのほか諸色持ち下り、日市相立ち来り候処、当時は相絶え居り、町柄も衰微し仕り候間、日市差し免じられ下されたき旨、願い奉り候につき、その通り仰せ付けらる」 *「泰国院様御年譜地取」寛政2年(1790)3月15日条、公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋島家文庫/鍋113-補28)/『佐賀県近世史料』第1編第8巻、佐賀県立図書館、平成10年
※7 罪人の人力で土砂を掘り上げ
「右川筋(川上川筋)のうち、出水の時分、年々に石井樋辺りまで流れ下り居り候砂利の儀は、平日一通の水勢にては相流れず、大水時分の手当と候ては何分行き届き難く候条、右は徒罪の者にて川船より漸々御城下へ漕ぎ下し、八幡小路西川端へ揚げ置き候ようの事
一右砂利の儀、川船壱艘分料銀相定められ、入用の者は郷普請方へ相達し、料銀相納め受け取り候通り、勿論町屋そのほか道普請などに申し乞い候ようの事
一砂利料銀の儀は、年々相集め置かれ、砂利漕ぎ下し用の川船御造立用に相用いられ候事」 *「泰国院様御年譜地取」天明8年(1788)11月5日条、公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋島家文庫/鍋113-補28)/『佐賀県近世史料』第1編第8巻、佐賀県立図書館、平成10年