江戸時代の九州随一の幹線道路といえるのが、小倉と長崎を結ぶ長崎街道です。道のり約223㎞のうち、途中の4㎞は佐賀城下を東西に通過していました(下の図中の赤線)。その道筋には、曲がり角が城下内だけで18ヵ所もありますが、これはどうしてなのでしょうか。
長崎街道の城下東側の入口である構口(牛嶋口)から西進して最初に架かる橋が思案橋(しあんばし)です。江戸時代初期の慶長年間の絵図(下図①)や寛永3年(1626)の絵図にその姿はなく、正保年間(1644~48)の絵図(下図②)に初めて登場することから、この間に現在のルートに整備されたことがわかります。思案橋がない頃は、紺屋川(こんやがわ)の手前から北に曲がり、牛島天満宮の手前で折れて高木町を西進し、元町・白山町(しらやままち)方面へ向かうルートでした。
初代藩主鍋島勝茂公が、街道沿いの東の呉服町と西の長瀬町の2ヵ所に馬継所を設け、駄賃馬を30疋ずつ配置したのが寛永14年(1637)のことですから(※1)、長崎街道を軸とする城下交通の整備は、やはりこの頃に進んだと考えられます。同じ年におきた島原の乱では、佐賀藩は諸富の寺井津(てらいつ)から海路で島原に出陣しましたが、諸藩の軍勢も陸路・海路を用いたことで、街道をはじめ交通の重要性がより認知されたことでしょう。
また、慶長年間の絵図にだけ「南蛮寺」という区画があります。これは慶長13年(1608)に建立されたキリシタン教会ですが、5年後の禁教令により廃止されました。その後は武家屋敷となり、やはり1640年代までに長崎街道と町人地に整備されました(下図①②参照)。
①慶長御積絵図(城下北東部の抜粋)
②正保御城下絵図(城下北東部の抜粋)
さて、江戸時代の半ばの逸話です。佐賀藩に藩校弘道館(こうどうかん)ができたことを耳にした熊本天草の人物が、学問修行のため佐賀城下までやって来て弘道館への出入りを希望しました。しかし佐賀藩は、武家地内への他藩者の立ち入りは禁止という法令を理由に断りました。とは言え、せっかく遠方から足を運んだのに気の毒ですから、城下の隣接地にある大財聖堂(おおたからせいどう)での学問を認めました(※2)。このように佐賀城下では、旅人は武家地ではなく、必ず町人地内を通行するようにと定められていたのです。
上の絵図を見ると、長崎街道のルートは、お城から離れた町人地内(橙色の区域)を通過していることがわかります。佐賀城の周囲には武家地があり、町人地はその外側を囲むように配置されていました。旅人が通行する街道は武家地を避けて設定された結果、18回も曲折を重ねる複雑なルートになっています。
また城下中心部に近づくにつれ、街道は北側に張り出していますから、お城から一定の距離を保つねらいがあったとも言われています。吉田重房という名古屋の商人は実際に通行した際、「御城は通り筋よりは見えず」と書き残しています。(※3)
街道の曲がり角の各所には、道しるべがありました。防御や規制ばかりでなく、旅人に安心を与えるものです。上図5番の位置にあたる、呉服町(現 呉服元町)の曲がり角には、今も恵比須像とともに、小倉と長崎方面を石に刻んだ当時の道しるべが大切に守られています。
※1 城下の2ヵ所に馬継所を設置
「御城下十八町の内、駄賃馬六十疋を東西に三十匹ずつに分けて両方にて断えず立ち飼わせられ、馬散使両人を定め、この者へは町屋敷の地料・諸公役を差し免ぜられ、惣じて御領中宿継駄賃、以前の如く一里を銀三分、山坂を四分に定め、佐嘉より豊前内裏までの通馬を銀十四匁に相定められ、服部市郎兵衛を御領中小荷駄心遣いに仰せ付けられけり」 ※「勝茂公譜考補」寛永14年(1637)2月20日条、公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋島家文庫/鍋113-62)/『佐賀県近世史料』第1編第2巻p.407、佐賀県立図書館、平成6年
※2 受け入れられなかった留学生
「天草御領村吉岡元珉と申す者、学問稽古のため御当地(佐賀)罷り越し滞在相願い、古賀弥助・石井有助(鶴山)へ入門仕り、学館(弘道館)へも罷り出たく相願う義に候得共、旅人の儀にて小路筋にては出会も仕り難く候。しかし学館をも相立て置かれ候儀に相響き、遠方態と罷り越し候処、空しく差し帰り難く候条、大財聖堂などにて文学の儀申し談じたく弘道館より申し達し候。右は相達し候通り差し支え候儀これ無きにつき、その通り相整え候儀申し上げに相成る」 *「泰国院様御年譜地取」天明4年(1784)4月3日条、公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋島家文庫/鍋113-補28)/『佐賀県近世史料』第1編第7巻p.112、佐賀県立図書館、平成11年
※3 「御城は通り筋よりは見えず」
「佐賀は松平肥前守殿〈三十六万石〉の御城下なり。入口に総門見付番所あり。町いと長し。所々草葺きの家交じりて見ゆ。中にも白山町というあたり家居よろし。御城は通り筋よりは見えず」 ※菱屋平七「筑紫紀行」/谷川健一編『日本庶民生活史料集成第20巻 探検・紀行・地誌 補遺』三一書房、昭和47年