第9回は武家地、第10回は町人地をそれぞれ見てきましたが、今回と次回は城下全体の枠組みがどのように移り変わり、維持されたのかを見ていきましょう。
鍋島報效会(徴古館)が所蔵する鍋島家伝来の城下絵図は、江戸時代の約200年間の中で7期分が残されています。そのうち2つだけ、武家屋敷が緑・茶・赤の3色に色分けされたものがあります。いずれも初代藩主鍋島勝茂公の時代にあたる慶安2年(1649)に作成された慶安御城下絵図と承応3年(1654)の承応佐賀城廻之絵図です。
左は、承応絵図の色分けの説明箇所です。 「紀伊守(きいのかみ)」は小城藩主鍋島元茂(もとしげ)公、「甲斐守(かいのかみ)」は蓮池藩主鍋島直澄(なおずみ)公のことです。つまり「青色」(緑色のこと)は、支藩の小城藩に所属する武士の屋敷、「香色」(茶色のこと)は蓮池藩の武士の屋敷を示しているのです。赤色の「又内」とは、小城・蓮池以外の重臣(多久家など)に属する家臣の屋敷を示しています。逆に言えば、無色の屋敷が、佐賀藩(本藩)直属の武士の住まいです。 元茂公は勝茂公の長男、直澄公は三男です。本藩と支藩の藩主が親子関係だったこの時期は、本藩の武士も支藩の武士も、佐賀城下に「同居」していたことが視覚的に示されているのです。 |
城下絵図は約200年で7期分しか残されていないのに、この2つの絵図の年代はわずか5年しか違いません。しかし絵図を細かく見比べると、異なる部分も少なくありません。例えば、同じ範囲(片田江交差点周辺)を示した図を見比べると、道筋はほぼ変わっていませんが、水路を見ると承応絵図(左側の図)では屋敷と屋敷の境目のほぼ全てに、新しく水路が掘られていることが分かります。
城下の町づくりは慶長13年(1608)頃に大きく進んだとされますが、それから約半世紀を経てもなお、町づくりが進んでいた様子がうかがえます。
左:1654年の承応佐賀城廻之絵図(片田江部分)/右:1649年の慶安御城下絵図(片田江部分)
勝茂公は承応絵図から3年後にあたる明暦3年(1657)に78歳で亡くなりました。歴代で最長の50年間も藩主をつとめ、佐賀んまちの原点である城下の基礎を築いた功労者です。いわばその集大成にあたる承応絵図には、次のような勝茂公の言葉が添えられています。
「佐賀城下絵図が仕上がったので印判を押して(担当責任者に)渡します。今後は町人地・小路(武家地)や堀・川など、この絵図と相違のないようにしなさい。もし変更が生じる場合は私まで報告しなさい」。(※1)
その跡を継いだ2代藩主光茂公は勝茂公の孫にあたります。初めは勝茂公と親子関係だった本藩と支藩の藩主は、世代交代に伴い、叔父と甥、そしていとこの関係へと変わりました。そして17世紀後半になると、小城藩士は小城へ、蓮池藩士は蓮池へ城下から退去し始めます。支藩が独立的な動きを見せ始め、それを本藩が抑え付けようとしたことから摩擦が生じたことが原因と言われています。(※2)
その後、城下南西部の小城藩士が集中していた跡地には、3代藩主綱茂公により大きな大名庭園(観頤荘)が造営された時期もあるなど城下の姿は改変され、必ずしも勝茂公が言い遺した通りではありませんでした。しかしこの言葉は忘れ去られたわけではありません。実は、江戸時代の中ごろや幕末の10代藩主直正公の時代にも生き続けた様子を次回でご紹介します。
※1 承応絵図に記された勝茂公の言葉
「佐賀城廻之絵図仕立て差し上せ候条、印判を付し相渡し候。先様、町・小路・堀川筋などこの絵図に相違無きように仕るべく候。自然相替る儀これ有るにおいては、我等へ申し聞かすべきものなり 承応三年正月廿六日 信守(信濃守=勝茂公のこと)」 *承応佐賀城廻之絵図(安政2年書写本)、個人蔵
※2 本家と分家の摩擦による佐賀城下退去
「近年、又家中と候て御阻て成され候につきて何れも不気味に存じ、佐嘉を立ち退き申し候」
「諸事につき隔て出来候につきて、御三人附きの者共立腹致し …(中略)… 憤り候て、皆々佐嘉を立ち退き、御主人方も御在所々々々へ御引取り、月堂様(小城・元茂公)御霊屋を宗智寺に引き取り、その後、隔心出来、殿様を御本家と唱え、御主人方を殿様と申し候て、別旗立て申し候」*「葉隠聞書」 /栗原荒野編著『校註葉隠』第580項、内外書房、昭和15年、(再版)青潮社、昭和50年