佐賀市の中心部は、江戸時代の佐賀城下です。全国10位の石高にあたる35万7000石佐賀藩の城府として江戸時代の初め頃に整備されました。約400年の年月を経た今、往時の建物が少ないため城下町という意識がなかなか持ちにくい現状ですが、佐賀市中心部は、実は佐賀城下という「遺跡」の上に成り立っているのです。
「遺跡」をたどる手掛かりとなるのが、江戸時代の城下の姿を描いた御城下絵図(ごじょうかえず)です。佐賀藩主鍋島家に伝わった資料を保管する鍋島報效会(徴古館)には、7つの時期の御城下絵図が残されています。徴古館では市民団体や佐賀市と共に「さが城下まちづくり実行委員会」を組織し、歴史を活かしたまちづくりにつなげるため、平成21年から御城下絵図を活用した取り組みを始めました。
その手始めに行った作業が、御城下絵図と現代の地図の「重ね図」の作成です(下の図はその部分図)。多くの絵図では、道路が黄色、水路や堀が水色に着色されています。その上に現代の地図(図中の黒い細線)を重ねると、なんと道路や水路がぴったりと合致するではありませんか。北堀端の貫通道路も道幅は変わっていますが江戸時代の道筋が元になっており、道路の約半分がかつてはお堀だったことがわかります。
▲御城下絵図と現代地図の重ね図(県庁周辺) 絵図は1810年頃作成・公益財団法人鍋島報效会所蔵
普段何気なく使っている道路、目にしている水路が約400年続いている……つまり、私たちは江戸時代の地割りという「遺跡」の上で暮らしているのです。一方で明治時代以降に埋め立てられた場所や、中央大通りなど新しい道路の場所も一目瞭然ですから、重ね図は今後のまちづくりへの指針も与えてくれます。
御城下絵図は「地形図」の役割をもつほかに、武士の世帯主名まで書いた「住宅地図」の役割も担っています。また城下を整備した時の記録や城下で暮らす上での法令、城下に住んだ人々の人物像が分かる江戸時代の文献資料などと組み合わせることで、絵図だけでは分からない、生き生きとした人々の暮らしぶりも見えてきます。
こうした気づきを市民と共有するため、御城下絵図を使った町歩きイベント「佐賀城下探訪会」を行い、多数の参加者に「何もなか」佐賀ではないことが知られ、数々の新発見も続いています。この連載では、主に鍋島報效会に伝わる絵図や文献資料をひもときながら、約10年間で分かった、今につながる佐賀城下にまつわる「あれこれ」をお伝えしていきます。
佐賀城下探訪会の様子(平成21年)