佐賀城下の町づくりは、中世に栄えた蛎久(かきひさ)地区から町が移されたことに始まり、次第に整備された結果、33の町人地ができました。
前回は城下絵図と屋敷帳(土地台帳)で武家のお屋敷をクローズアップしましたので、今回は町人地に迫ってみましょう。
下の図は城下北東部の部分。世帯主名が記されている武家地に対し、町人地は黒い〇囲み内の拡大図で分かるように、「コレヨリ呉服町」という文字と、同じ形の町屋が軒を連ねる様子が大ざっぱに描かれているだけです。これでは、どこに誰が住んでいたのかを知ることはできません。
1740年作成の元文佐賀城廻之絵図(城下北東部の部分) 公益財団法人鍋島報效会所蔵
そこで役立つのが、「竈帳(かまどちょう)」という帳簿です。各竈つまり各世帯の情報を町ごとにまとめた住民台帳にあたるもので、10代藩主鍋島直正公の時代にあたる1854(嘉永7)年に作成されました。どんなことが書かれているのか、呉服町(現・呉服元町)の、とあるお宅を拝見してみましょう。下段右は竈帳の写真、左はそれを活字にしたものです。
①敷地について。西側に入口をもつ家で、幅は6m。反対側(東側)は6m15㎝、奥行き(入り)が22m12㎝。「うなぎの寝床」と呼ばれる細長い長方形の敷地です。
②借家ではなく持ち家。
③檀那寺(だんなでら)は、御城下にある一向宗(浄土真宗)の願正寺(がんしょうじ)。
④仕事は饅頭を扱う菓子店。
⑤世帯主は31歳の中溝作平で、辻小左衛門の組に所属する足軽。同い年の女房、4歳の子供才次郎、52歳の母親がいる。
これに加え、足軽の菓子職人(76歳)とその女房(70歳)も同居しており、計6人で1つの世帯を構成していました。
中溝家は苗字をもつ「足軽」のお武家さんですが、呉服町という町人地に住んでいます。これは町人地に住む武士もいたこと(第8回)の一例です。実は町人地に住む武士と町人の割合はおよそ半々でした。藩からもらえる禄(給料)に限りのある武士は商売で生計を立てていました。この菓子店は長崎街道沿いの角地という立地で、商売繁盛だったのかもしれません。中溝さんは現在も同じ長崎街道の角地の場所で和菓子店を営まれています。
竈帳を手掛かりに、ほかの町も見てみると、例えば17世帯から成る「八百屋町」(現在の中央本町の一部)に八百屋は1軒もありません。242世帯ある「紺屋町」に染屋は1軒だけ。町名の由来がはっきりしない町もあるのです。
一方で「西魚町」には、魚売りや魚問屋などが11世帯もあります。これは全44世帯の4分の1にあたり、町名の意味が納得できます。また現在、住居表示としては消滅している「東魚町」(現在の中央本町の一部)も、干物売りを含め海産物に関わる職業が38世帯のうち17世帯あり、実に45%の割合を占めます。中には佐賀城に魚を納める「御用肴屋」がいたり、重臣諫早家(いさはやけ)の御用達をつとめる「諫早屋敷肴屋」もいました。
「東魚町」のように、江戸時代の33町の中には消滅した町名もあります。一方で、例えば江戸時代の柳町・上今宿町および蓮池町(※)の一部を合わせた範囲が現在の「佐賀市柳町」にあたるように、範囲が改変されつつ今に引き継がれている町名もあります。現在の自治会名は、江戸時代と同じ名前、ほぼ同じ範囲で引き継がれている例が25箇所もあります。
地名は歴史の記憶装置です。時代を超えて地名が使い続けられることにより歴史も伝わります。日常の会話で「やなぎまち」や「しらやま」、「いましゅく」などという響きに包まれて暮らしていることは、佐賀市の歴史の豊かさのひとつと言ってよいでしょう。
(※)支藩のあった「蓮池町」ではなく、江戸時代は蓮池町と呼ばれていた旧古賀銀行周辺のこと。