第8回 武士はつらいよ

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 これまで城下の水路や道路などを見てきましたが、今回は、城下の住宅事情を覗いてみましょう。城下は、武家地(例 八幡小路や中之小路など)と町人地(例・白山町や唐人町など)の2つにエリア分けされます。武家地には約1,000ヵ所の屋敷があり、町人地には約3,500世帯が住んでいました。

 

町人の住む場所

 百姓や町人が武家地に住むことは禁じられていました。実際に武家地に居住していたことが問題視された町人が、藩の命令で屋敷を売却させられた事例もあります(※1)。ただ、町人地の中であれば、白山町(しらやままち)に住もうと柳町(やなぎまち)に引っ越そうと自由だったようです。町屋は、間口が狭く奥行きが細長く区画された敷地がひしめき合う形が一般的でした。そのため一たび火災がおこれば延焼しやすく、一度に数百軒が類焼する火災も一度や二度ではありませんでした。(※2)
 

武家地に住む武士

 一方、武家地はやや事情が異なります。基本的に一つの敷地が水路に囲まれて独立していました。敷地の大きさは、上級~下級まで武士の格の違いに応じ、7,000坪~数十坪クラスまで様々でした。

 まず城内は、本丸や二の丸、馬屋や百間蔵(ひゃっけんぐら/武器庫)などといった藩の公的な施設が置かれていたほか、この時代には上級武士の屋敷が9軒ありました。とりわけ現在の佐賀西高校や県庁南側の職員駐車場付近にあった諫早家(いさはやけ)・多久家(たくけ)・武雄鍋島家という龍造寺家一門の屋敷地は広大で、多久家は約7,200坪もありました。

 お堀の外側が城下です。城下に広がる約1,000ヵ所の武家屋敷は「○○小路」や「△△厨子(ずし)」と呼ばれる90ほどの小グループに分かれており、お城に近い小路と、城下の隅に位置する小路では、性格が異なりました。「城下の隅の小路に住んでいる武士の中で、さほど武士としての身分が高くないとは言っても、武家地内に住む以上、それなりの屋敷囲い(塀や生垣など)を構えなさい」というお達しが出されたこともあります(※3)。背伸びするという意味ではなく、お武家さんとしての自覚を持って、見栄を張りなさいということでしょう。

 また2代藩主鍋島光茂公は、「身分の高い武士は物陰に隠れるようではならないので、身分にふさわしい場所に移住しなさい」という命令を出しています(※4)。「身分にふさわしい」とは、お堀端などお城に近い場所のことです(上図に紫色で着色した小路)。逆に、下級武士がお堀端などに住むことはできないルールでした。それでも法の網をかい潜り、上級武士の名義を借りてお城近くに住む下級武士もいたため、藩は厳しく取り締まっています。(※5)
 

町人地に住む武士もいた

 佐賀藩の武士の全員が城下の武家地に住むことができたわけではありません。武士の数に対し、約1,000ヵ所の屋敷では到底足りません。そこで手明鑓(てあきやり)や足軽・被官(ひかん)といった下級武士の中には、町人と同じ町人地に住む者もおり、様々な商売を営んでいました。それでも武士としてのプライドがあります。武士の証となる苗字付きの表札をあえて目立つように掲げる場合もあったようです(※6)。ただ、「たとえ武士でも町屋に住む以上はその町のルールを守るべき。違反者は退去させる」という罰則付きの法令も出されて(※7)、武士であろうと町屋の住民としてその町のルールに従って暮らすのは当然のことでした。
 

暮らしやすさと隣人への敬意

 江戸時代は身分によって立場や権利が違う時代ですから、武士と町人が同じ町に住んだり、隣り合う地区で暮らせば摩擦も生じたようです。今は居住や移転の自由が保障されていますが、市民の誰もが、住まう地域のルールを尊重し、隣人への敬意が大切なのは今も昔も変わりません。

 

典拠史料

※1 武家地居住の町人が退去処分
「紺屋町通小路 東側五番  右、御用桶屋毛利覚兵衛居屋敷を、弾右衛門組内田中作左衛門与足軽  江口権左衛門へ売り渡し、願いの如く相済み、安永三年(1774)午十月、新沽券状買主へ渡る。但し、手明鑓土屋三五左衛門揚屋敷を、先年御側より覚兵衛へ拝領買仰せ付けられ候由。然しながら、町人、小路屋敷へ罷り有るべき様これ無きにつき、売り払い候様手当ての末、本文の通り相済む」 屋鋪御帳扣(明和屋敷帳)」公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋島家文庫/鍋832-3)/『明和八年 佐賀城下 屋鋪御帳扣』p.112、財団法人鍋島報效会、平成24年

※2 町人地での火災の例(町人地576軒が類焼)
貞享3年(1686) 「同月(三月)五日の夜、佐嘉火事  紺屋町〈百八拾三軒〉 牛嶋町〈百六軒〉 材木町〈弐百三十五軒〉  柳町〈五十弐軒、合せて町屋五百七拾六軒〉 田代小路〈侍屋敷弐拾軒〉」 *「直能公御年譜」貞享3年(1686)3月5日条、公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋島家文庫/鍋113-102)/『佐賀県近世史料』第2編第1巻p.808、佐賀県立図書館、平成21年

※3 武家地内の屋敷囲いについて
「外囲いの義 …(中略)… 屋敷内を見透し候通これ無き分には手当これ有るべきの義候処、重立ち候小路に外囲全躰無沙汰にて囲まばらに相成り、諸人の見入りも気毒の儀に候。一躰端小路と候ても、外囲い大形に仕るべき様これ無く、小身の面々と候ても小路住居仕り候上は、相応々々には飾りこれ無くて相叶わざる義候条、急度繕いその外相整え候様、訳て手当これ有べく候事」天明8年(1788) *「諸触状写」公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋島家文庫/鍋326-73)『佐賀城下法令史料集』p.148、公益財団法人鍋島報效会、平成26年

※4 身分相応の居住地に引越すこと
「一、給人屋敷の儀、大身成る者、物陰に罷り在り候て然るべからず候条、漸々身上相応の所に移り候よう仕るべく候。さてまた知行百石より上の者、在郷仕り候儀、兼ねて法度申し付け置き候事
  一、給人屋敷に百姓・町人、罷り在り候儀、停止たるべく候」元禄4年(1691) *「里山方并道屋敷方写(「光茂様里山方并道屋敷方写」所収)」公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋島家文庫/鍋326-115)/『佐賀城下法令史料集』p.118、公益財団法人鍋島報效会、平成26年

※5 下級武士はお堀端などには住むことができない
「一、三門堀端  一、同本庄通小路  一、松原小路 一、八幡小路  一、中ノ小路  一、片田江小路  一、虎次竪小路  一、同西横小路  右書載の小路、手明鑓ならびに陪臣等、住居相叶わざる場所に候処、間には侍の名前にて手明鑓ならびに諸家来、且つ足軽躰の借宅、屋番の形にて住居致し候もこれ有り候処相聞え候。その通りにては弥増し屋敷寡く、身上柄の人住居相成らざる義候」天明8年(1788) *「諸触状写」公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋島家文庫/鍋326-73)『佐賀城下法令史料集』p.149、公益財団法人鍋島報效会、平成26年

※6 町人地に住む武士の表札
「惣じて佐賀城下町そのほか宿に人家みな表札を懸け申し候。手明槍などは大なる表札などかけ、足軽・町人など皆小札など掛け申し候。足軽はその名字を記し候て町人に混ぜざるように致し置き候」 
*「西肥聞書」公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋島家文庫/鍋300-10)/生馬寛信・串間聖剛「翻刻史料 佐賀県立図書館所蔵『佐賀紀聞』」『佐賀大学文化教育学部研究論文集』第13集第1号、平成20年

※7 武士でも町人地のルールを守ること
「町屋の儀は、通り筋にて礼法猥りの儀これあるについては、なかんずく然るべからず候。たとい侍たりとも町屋へ住宅においては町並の礼法、相違すべからず候。もし相背く者これ有るにおいては、早速、所を相払うべく候事」元禄3年(1690) *「町方定)」公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋島家文庫/鍋324-12)/『佐賀城下法令史料集』p.116、公益財団法人鍋島報效会、平成26年

 

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