山に水源があり、上流から下流へ一方向に流れる「川」に対し、「江(江湖/えご)」と呼ばれる水の流れには、上流と下流の明確な区別がありません。「江」とは、潮の満ち引きの影響を受ける流れのことです。最大6mという干満差が日本一大きい有明海の潮は、海抜約3mの佐賀城下や、さらに北部まで満ち引きを繰り返します。
下の絵図(佐賀藩領内主要街道図)には、黄色い四角で囲まれた城下(「佐嘉御城」)に接する2本の流路が描かれています。右が佐賀江(さがえ)、左が本庄江(ほんじょうえ)です。有明海の潮水は二つの江を通じて城下に流れ込んでいました。城下絵図(1649年の慶安御城下絵図)を見ると、バナナ状に曲がる本庄江に沿って本庄町と本庄向町(※)があり、その下に厘外津(りんげつ)が、佐賀江沿いには下今宿津町(下今宿町)があり、ここまで大型の船が上がってきました。「津」とは川港を意味します。※現在の佐賀市本庄ではなく佐賀市末広の一部
幕末の安政6年(1859)10月4日、越後長岡藩の河井継之助(かわい・つぎのすけ)という武士は長崎への途次、佐賀城下を通過したことを日記にこう書き残しています。(※1)
「午後2時頃、本庄町に着いたが、船は潮の都合で夜10時頃にならないと出発しないとのことだった。そこで船宿で休んでいたが大きな音が聞こえてきたので屋外に出てみると、反射炉で鋳造した大砲を船積みするために曳行(えいこう)する音だった。佐賀藩の役人に注意を受けたが、あまりに感心したのでとお願いし、積み込み作業を見物した。やがて夜10時になり、自分を含む五人の乗合いの小船が長崎に向けて本庄江を出船。同時刻に出発した船の中には楠の丸木舟もあった」。
河井は船中で、「この船、屋根なく、寒き事なり」、「海は泥海なれども風景おもしろし」などの感想を抱きつつ、翌朝8時に諫早(いさはや)で下船しています。暗闇の有明海を約10時間かけて移動したのです。
城下絵図を見ると、佐賀江沿いの下今宿津町に藩が管理する「材木蔵(ざいもくぐら)」が描かれているように、木材や大砲など大きな重量物を運ぶには、人馬で運ぶ街道よりも水上交通が便利でした。
幕末期の住民台帳にあたる「竈帳(かまどちょう)」によれば、下今宿町には炭薪店や八百屋が城下で最も多く住んでおり、本庄向町には石工(いしく)や瓦屋の数が城下最多で、これも佐賀江・本庄江に面するという好条件によるものでしょう。本庄町では、生活に困った住民が本庄江沿いに出店を構え小魚や果物などの商売をしたいと藩に申請し、役人が実地調査をした結果、指定場所での営業が許可されたという史料も残されています。(※2)
しかし、人と物の往来に伴いトラブルもおきました。江戸時代後期、本庄江と佐賀江から舟で城下に入った旅人や商人に対し、彼らの荷物を港から運ぶ運送業者が法外な運賃を要求し、声高な口論がおこるなど風紀上の問題にもなりました。そこで藩は、本庄町と下今宿町を起点として、距離に比例した一律運賃を定めて解決を図っています。(※3)
明治時代前半、舟運で賑わう下今宿町の様子。この建物は道路拡張に伴い柳町に移築され、「旧牛島家」として現存しています。(中谷與助編『佐賀縣獨案内』 明治23年、龍泉堂/復刻版は青潮社、昭和58年)
交通や物流の拠点に人と物が集まり、商いが生まれ町が賑わうことは、今も昔も同じです。その役割を主に鉄道が担う現代では、佐賀駅から乗車し車窓から眺める低く平らな景観は「佐賀らしさ」を感じさせます。海水を城下に引き込むことが可能なのもこの低平地のおかげであり、かつては海を活かした交通体系と賑わいが佐賀のまちにはあったのです。
※1 *河井継之助「塵壺」安政6年(1859)10月4日条/『塵壺 ―河井継之助日記』(東洋文庫257)平凡社、昭和49年
※2 住民が本庄江沿いに出店
「本庄町貧窮者共家内数人相育み、当時節柄、何分にも相続相弁え難く候条、当分渡世のため九人、本庄町江湖端へ出店仮屋相飾り、小肴・果物の類商売仕りたき由。尤も、差し支え候節は、則ち解き除け申すべく候条、その通り差し免じられ下されたき旨、別当久次郎ならびに家主伊丹孫十・久米忠右衛門共より相願い候趣、当役承り届け、諸筋において支えこれ無き哉、場所立会い見分仰せ付けられ候上、道祖元町行き当たり辺りより南へ長さ十七間・横凡そ弐間五尺、さてまた厘外津境元より北へ火番屋取り挟み、長拾間・横凡そ捊(ならし)弐間五尺の所へ仮屋相建て候よう仰せ付けられ候。」 *「泰国院様御年譜地取」天明7年(1787)9月2日条、公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋島家文庫/鍋113-補28)/『佐賀県近世史料』第1編第8巻p.123、佐賀県立図書館、平成12年
※3 運賃問題
「御城下諸商売荷そのほか運送致し候駄賃の儀、馬子共、いや増し莫太受用いたし、なかんずく旅人はもとより地方商人荷物、本庄町・今宿江そのほか入津の節、緩急相考え法外の賃銭申し懸け、難渋に及び候儀、間々これあり。且つは炭薪躰取り寄せ候節、駄賃の高下相論ずる事かしましく、甚だ風俗よろしからざる趣相聞こえ候につき、左の通り駄賃銭相定め候よう仰せ付けられ候 …(下略)… 」天明6年(1786) *「泰国院様御年譜地取」天明6年(1786)10月14日条、公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋島家文庫/鍋113-補28)/『佐賀県近世史料』第1編第7巻p.520、佐賀県立図書館、平成11年