さがじょうごほんまるさしず
嘉永年間(1848~54) 縦82.0cm 横80.0cm
享保11年(1726)の火災以後、本丸が復興されていなかった佐賀城は、天保6年(1835)の火災で本丸機能を持つ二の丸を再び焼失。火災後、10代藩主鍋島直正はすぐに再建方針を打ち出したが、それは享保火災以後のように二の丸を政務の中心とするのではなく、佐賀藩発足当初のように本丸を中心に復興するというものだった。
天保9年(1838)に普請が完成し、直正は本丸に移る。本図は完成後の本丸域内の間取り図で、嘉永2年(1849)に養子先(倉町鍋島家)が決まった皆次郎(直正の末弟)の部屋が示されていることから、嘉永年間のものと考えられる。外役(行政一般を担当)と内役(藩主家の家政を担当)の役所などが一つ屋根の下に集められた。また、再建前の計画図である天保6年の差図と比べると、能舞台などが実際は建てられなかった一方で、大奥にはより多くのスペースが割かれていることなどがわかる。
火災の6日後には行政トップの請役当役として一歳年長の庶兄鍋島茂真(須古鍋島家)を任用するなど、この火災を機に藩政の中心メンバーに直正を支える改革派が登用されていく。なお、本図には茂真(清陰)の所用であることを示す「清陰所蔵」の朱印が捺されている。
本品は「幕末佐賀の家老たち」展(平成28年12月5日~平成29年1月22日)に展示しました。