(公益財団法人鍋島報效会所蔵)
弘化3年-大正10年(1846-1921)
10代鍋島直正の嫡男で、文久元年(1861)佐賀藩第11代藩主となる。室は梅溪通善(うめたに・みちたる)娘の胤子(たねこ)、継室は廣橋胤保(ひろはし・たねやす)娘の栄子(ながこ)。
戊辰戦争で佐賀藩兵の指揮を執る。維新後は新政府の要職につくほか、明治4年(1871)から8年近くイギリスに留学。帰国後は外務省御用掛を経て、明治13年(1880)に駐伊特命全権公使となりローマに約2年間勤務。明治15年帰国直後に元老院議官・式部頭(同17年に式部長官/同22年に式部長)に任じられ、17年の華族令で侯爵に叙される。明治28年に式部長を依願辞任後は宮中顧問官、議定官等歴任。従一位勲一等。
雅楽や和歌など音楽・詩歌の分野で伝統文化を重んじ、華族による雅楽グループ絲竹会(しちくかい)に所属し、大日本歌道奨励会会長なども務めた。