2018年7月 佐嘉藩兵上野彰義隊砲撃之図

佐嘉藩兵上野彰義隊砲撃之図

昭和時代初期(20世紀前半) 陣内松齢 筆 絹本着色 掛幅装 縦80.7cm 横110.4cm



慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の戦いに始まる
戊辰戦争。戦線は東に移り、新政府軍は4月11日に無血開城された江戸城に入ったが旧幕臣により結成された彰義隊は上野の寛永寺に集まり対立した。
5月15日、新政府軍は大村益次郎の指揮により総攻撃を加えた。このとき野州鎮撫総督を務める11代藩主鍋島直大公率いる佐賀藩も参戦。アームストロング砲などによる砲撃により膠着状況が動き、彰義隊は壊滅した。本図には、不忍池を挟んだ対岸に向け佐賀藩兵が砲撃を加えている様子が描かれている。過度な被害をもたらす危険性のあるアームストロング砲の使用は限定的にすべきという10代直正公の意向があったが(鍋島直正公傳)、直大公はこのときの想いをこう詠んでいる ―「大君のみたてとなりて尽くすこそ 弓矢の家のならひなりけれ」(復暦本書)。
なおこの時、新政府軍に降った旧幕臣の妻娘から
負傷者看護の申し出があったのを直大公は認可している。しかし新政府軍の負傷者の中には「敵方」の看護を拒む者もいたという。博愛社(のち日赤)創設の約10年前に、すでに敵味方の区別なき救護が自然発生的に生じており、直大公は「これ則ち今の厚(篤)志看護婦人会の始まりなり」と位置づけている(慶応四年戊辰春四月横浜在勤之記事)。


「慶応四年戊辰春四月横浜在勤之記事」(公益財団法人鍋島報效会 所蔵) 部分写真

展示案内

本品は「幕末明治の鍋島家 ―大名から侯爵へ」展 第2期(平成30年6月16日~8月24日)にて公開しています。