2020年9月 川中島・筑摩川・姥捨山之図

川中島・筑摩川・姥捨山之図

かわなかじま・ちくまがわ・おばすてやまのず
3代佐賀藩主鍋島綱茂筆 元禄10年(1697)
絹本着色墨書 三幅対 (各)縦90.4cm 横35.0cm

永禄4年(1561)9月、武田信玄と上杉謙信が北信濃を争った川中島の戦いの図。謙信の太刀を信玄が軍配で受け止めたと言い伝えられる一騎打ちの場面を中幅とし、左右に筑摩川と姨捨山を描く。
中幅の賛文に「元禄丁丑晩夏日 致徳斎自画併題」とあることから、
画・賛文ともに「致徳斎」と号した3代藩主鍋島綱茂(1652~1706)元禄10年(1697)に筆をとったことがわかる。「致徳斎活水大居士」という法号は、元禄9年に初めて会ったという大興寺(黄檗宗)の開山桂岩に懇望して得たものである(「綱茂公御年譜」)。
綱茂は若い頃から絵筆を握ったことが知られるが、本作のほかに武将を描いた現存例は、同じ元禄10年に描かれた「楠木正成・赤松円心・名和長年図」のみ。その自賛では「その志、また忠臣義士を見るべし。豈に慕わざるべからず哉」と楠木正成を称える。一方、川中島図の賛文では、謙信と信玄を曹・劉の中国の故事になぞらえ「知勇垂憲」と称える。綱茂の生母は、2代米沢藩主上杉定勝の娘虎姫(2代藩主鍋島光茂の正室)であるが、賛文からは、自らを謙信に連ねようとする意識は読み取れない。

綱茂没後にあたる享保元年(1716)成立とされる「葉隠」の背景には、
光茂・綱茂時代の文治主義に対する反動があったとされ、「御出生候へば、若殿若殿とひょうすかし立て候について、御苦労なさる事これなく、国学御存じなく、わがままの好きの事ばかり」と批判。「釈迦も孔子も楠(楠木正成)も(武田)信玄も、終に龍造寺・鍋嶋に被官懸けられ候義これ無く候へは、当家(鍋島家)の家風にかなひ申さざる事に候」、「余所の学問無用に候」として国学(佐賀藩史)に学ぶ重要性を力説する。綱茂作品の画題は、仏教・儒教・道教、歌仙や中国故事などと幅広い。楠木正成や武田信玄も、歴史画の一般的な画題として描いたのだろう。


【賛文
中幅(川中島図)「川中嶋軍奮闘合/券謙信強梁信玄/雄健踰筑摩帰趣/高梨遯比曹與劉/知勇垂憲/元禄丁丑晩夏日/致徳斎自画併題」
・左幅(姥捨山図)「さらしなや姨捨山にすむ月も 幾世の秋そえやはかはらね 致徳斎」
・右幅(筑摩川図)「筑摩川なかるゝ水の音そなき たかねの雲もけたぬ宮かな 致徳斎」

参考文献】福井尚寿「絵を書く藩主 ―佐賀藩三代鍋島綱茂の場合」『佐賀県立博物館・美術館調査研究書』第31集、佐賀県博物館・美術館、平成19年

 

展示案内

本品は「元禄の殿様 ―文人大名 鍋島綱茂」展(2020年8月24日~10月31日)にて公開中です。

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