天縦殿扁額
てんしょうでんへんがく
5代藩主鍋島宗茂が藩主就任以前の享保10年(1725)に揮毫し、佐賀城下の中小路(なかしゅうじ)に位置する鬼丸聖堂に掲げられた扁額。鬼丸聖堂は元禄4年(1691)、2代藩主光茂により佐賀城内に設けられた聖堂を、同13年に3代藩主綱茂が鬼丸の大名庭園・観頤荘に移建したもの。天縦殿は、もとは実松元林という検校の自邸内の講堂だったが、正徳2年(1712)に鬼丸聖堂境内に引き移したもので、扁額の揮毫も実松元林の依頼による。江戸時代に入り政治の学問的支柱として儒学が尊重されると孔子崇拝の風潮がおこり、学問所(藩校)と不離一体の孔子堂(聖堂)が造営されるようになった。佐賀藩内には他に元禄5年に大財聖堂、宝永5年に多久聖廟が建てられ、それに伴う学問の場として各々の依仁亭や東原庠舎があった。