神ノ島図
かみのしまず
弘化2年(1845)、10代藩主鍋島直正は大砲を増設し長崎警備の重点を外目(港外)に移す新防衛構想を幕府に進言したが容れられなかった。そこで直正は佐賀藩領(深堀領)である伊王島と神ノ島、四郎島に砲台を築くことで独自に増強を図った。本図には神ノ島と四郎島・小島の各砲台、薬庫・玉庫・道具庫などの倉庫類や遠見所、および各施設を連結する道路が示されている。画面左端に四郎島御台場・小島御台場があり、東側には埋立て工事により嘉永5年(1852)に完成した120間(約200m)の堤防が神ノ島へと続く。その付け根に﨑雲濱手御台場と﨑雲山上御台場、ほかに飛渡御台場と兜嵜御台場の計6台場が備えられている。台場の各砲座には砲種が記載されており、四郎島には八十ポンドや百五十ポンドといった巨砲が配備され、最重視されていた台場であることが分かる。