第2回 まちづくりの始まりの話

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 佐賀城下は武家地と町人地という二つの区域から成り立っていました。武家地は現在も「八幡小路(はちまんこうじ)」や「中之小路(なかのこうじ)」などの地名が残されているように、「●●小路(こうじ)」という小区画から成り、町人地は「白山町(しらやままち)」や「牛嶋町(うしじままち)」など、「●●町」で構成されていました。まちづくりが始まったのは今からおよそ400年前、その担い手は藩祖鍋島直茂公とその子で初代藩主の勝茂公でした。
 

まちづくりは西から

 勝茂公の事績をまとめた史料を見ると、町人地のまちづくり開始について、次のように記されています。「天正19年(1591)に蛎久(かきひさ)から佐賀城下に町を移した際、最初に六座町(ろくざまち)・伊勢屋町(いせやまち)・中町(なかまち)・白山町(しらやままち)を移し、その後段々他の町々が成立した。岸川町(きしかわまち)・長瀬町(ながせまち)も、元は蛎久の地名である」。(※1)

 このことから、①蛎久という中世に栄えた地域の町人が移転することで、近世(江戸時代)の佐賀城下町の一部がつくられたこと、②城下の町人地のまちづくりは西側の地域から着手されたことが分かります。さらに、伊勢神社・六座町天満宮(北面天満宮)・天徳寺・真覚寺といった寺社も、同じ天正年間に蛎久から城下に移されたことが浄土真宗寺院の由緒をまとめた史料に記されています(※2)


文化御城下絵図(城下の中央部から西側部分の抜粋)1810年頃/公益財団法人鍋島報效会所蔵
背景に着色が無い区域(城内やその周囲)は武士たちが住んでいた武家地。「○○町」という名前の町人地は武家地の外側に位置している。町人地のうち、赤枠と町名を付けた区域は、江戸時代のはじめにまちづくりが行われた際に蛎久周辺から移されたとされる町。


 

東側のまちづくり

 一方で、城下の東側は、平成28年度の発掘調査で橋の土台にあたる石組遺構が発見され、「牛嶋構口公園」として整備された構口(牛嶋口)が東の出入口にあたります。構口周辺にある牛嶋町一帯は慶長町(けいちょうまち)とも呼ばれていましたから、天正年間よりもあと、江戸時代が始まった時期にあたる慶長年間(1596~1615)に整備が進められたと考えられます。
 

城内の寺社の移転

 慶長年間はまちづくりと同時にお城の整備も進められました。それまで、龍造寺家が居城としていた時期の佐賀城内には寺社がありましたが、鍋島家による慶長年間の築城に伴い、龍造寺八幡宮は白山(しらやま)に、泰長院は精町(しらげまち)に、本行寺は西田代にそれぞれ移転したことが「葉隠」に記されています(※3)。今も龍造寺八幡宮の入口に立つ石造りの肥前鳥居(佐賀市重要文化財)は鍋島直茂公夫妻が寄進したものですが、柱には慶長九年(1604)の年記が刻まれています。


慶長九年の銘がある龍造寺八幡宮の鳥居

天正年間の記憶

 さて、8代藩主鍋島治茂公の時代、明和9年(1772)のこととして、「白山町・伊勢屋町・伊勢屋本町・点屋町・六座町から浮立を出して蛎久にお参りすることは、従来通り行うように」と記された史料があります(※4)。天正年間のまちづくりから約200年も過ぎた時代になっても、城下の西側の町の人々は元々の蛎久とのつながりを大切にし、蛎久天満宮への参詣を伝統として続けていました。まちの歴史を再確認することを毎年繰り返しながら、佐賀のまちで暮らしていたのです。
 

より詳しく知りたい方は
典拠史料

※1 町人地のまちづくり開始
「慶長十五年のころ御城築きの節、本行寺と賀昌院を今の地に移さる〈本行寺記〉 天正十九年、蛎久より佐嘉へ町御引き移しの時、六座町・伊勢屋町・中町・白山町をはじめに御引きなされ、その後段々諸町立つ。その節、蛎久の右近刑部・中元寺新左衛門・団良円、この三人数代の冨家ゆえ、町人頭仰せ付けられ引き移さる。その節、同所大神宮は御鬮(くじ)宜しきにつき引き移され、天満宮は御くじおりざるにつき御遷座これ無し。惣じて今度、六座町を最初に引き移されけり。…(中略)…また六座町と云う故は、蛎久より金座・銀座・朱座・漆座・釜座・穀物座などの六座を引き移されしに依りてなり。また岸川町・長瀬町も蛎久の在名なり〈蛎久満性院由緒〉」 *「勝茂公譜考補」公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋113-11)/『佐賀県近世史料』第1編第2巻、佐賀県立図書館、平成5年

※2 天正年間に寺社が蛎久から城下に移転
天正年中、伊勢太神宮・六座町天満宮・天徳寺・真覚寺、一同に蛎久より相移さる。当寺(真覚寺)は中町に寺地相定められ居住仕り候処、そののち駄賃町に相移され候事」 *「一向宗由緒」公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋700-2)/『佐賀県近世史料』第10編第3巻、佐賀県立図書館、平成26年

※3 佐賀城の整備
「竜造寺御城の事 御本丸は今の諫早殿屋敷、二の丸は多久殿屋敷にて候。泰長院は元は西の丸にあり。八幡宮は武雄殿の裏門の前にこれあり候由。御城御普請、慶長十九年の頃、今の所に直り候由なり。本行寺、北の御門より御門外に御引き直し候由」 *「葉隠聞書  第六」 /栗原荒野編著『校註葉隠』第724項、内外書房、昭和15年、(再版)青潮社、昭和50年

※4 城下の各町が浮立を出して蛎久にお参り
「九月九日、白山町・伊勢屋町・伊勢屋本町・点屋町・六座町より浮立仕立て蛎久参りの儀、唯今までの通り退転無く興行すべく候」 *「明和御改正記録」公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋320-40)/『佐賀城下法令史料集』公益財団法人鍋島報效会、平成26年

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