第3回 敵は北から攻めてくる!

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鍋島直茂像(公益財団法人鍋島報效会所蔵)

鍋島直茂公の遺言

 佐賀藩の基礎を築いた藩祖鍋島直茂公(日峯さん/1538-1618)は、晩年は城下の北郊にあたる多布施(たふせ)の地に隠居していました。あるとき直茂公は、自分の墓所についてこのように語ったといいます。

 「もし乱世になり佐賀が攻め込まれた場合、北山筋での攻防がポイントになる。そこで城下の北に位置する多布施の地に自分の遺骸が納まれば、佐賀の人々は、直茂の墓を決して敵の馬の蹄に踏ませまいと覚悟して戦うことだろう」(※1)

 元和4年(1618)、81歳で直茂公は亡くなります。そこで息子の初代藩主鍋島勝茂公は、この「遺言」のとおり、多布施の父の隠居所の地に日峯山宗智寺(にっぽうさん・そうちじ)を建立し、父の菩提を弔いました(墓所は明治4年、高傳寺に改葬)。また直茂公は、「有事の際、多布施より内側に敵を入れさえしなければ佐賀城下は持ち堪える」と語ったとも伝えられています。
 

佐賀城下の北側の防御のしくみ

 寛永3年(1626)に描かれた「御城并小路町図」をもとに、城下の防御の仕組みを見てみましょう(下の図)。

 まず直茂公が重視した北側の備えについてです。絵図には「城より北の山まで二里」という記載があり、今と変わらず佐賀城から北側には大和や金立の山の麓まで約8㎞の平野が広がっていました。当時の防御のおもな手立ては堀や土手、石垣ですが、城下の北端に横一文字状に、幅約20mという広大な十間堀(じっけんぼり)を掘り土手を築くことで防衛ラインを作っていました。そしてこのラインに沿って町人地(オレンジ色)が配置されていました。

 十間堀の造作工事が行われたのは慶長12年(1607)とされ(元茂公御年譜)、同年に十間堀の北側にあたる多布施の高岸村(たかぎしむら)に、砦として出城が築かれました。やがてこの出城の一部に龍造寺高房公(隆信公の孫)の霊を鎮めるための天祐寺が建立されたのです(※2)。西の天祐寺に加え、東の清心院も有事の際の出城の役割を兼ねていたと言われており、絵図からもこの2つの寺院だけが十間堀の北側に飛び出す形で配置されていたことがわかります。

 やがて天下泰平の世となり、出城としての実質的な機能は次第に失われたようですが、江戸時代中期の絵図にも、まだ天祐寺と清心院の北端に「櫓台」の記載があります。また天祐寺のある高岸村の一部は、江戸時代の後期になっても「城の前」という地名が残されており(※3)、これも出城があった名残りでしょう。明治以降も「城の前」という住所で郵便物が届いていたという話も伝わっています。

 
天祐寺と櫓台(元文佐賀城廻之絵図)

 
清心院と櫓台(元文佐賀城廻之絵図)

北側以外の防御のしくみ

 一方で、城下の東側と西側は左右対称のつくりになっています。最も外側に「江(え)」(自然河川のこと/図の薄い水色)が流れ、村と田、堀と土手があり、町人地、武家地の順に並び、城堀を越えて城内に至ります。佐賀城からの距離も、東端の高尾橋までと西端の扇町橋(高橋)まで、ほぼ同距離です(※4)。城下の範囲は、東は牛嶋口から西は長瀬町までですが、この図にはそれよりもさらに東西の広い範囲が描かれており、城下周辺の様子も知ることができるのです。

 城下の南側には堀や土手がありませんが、絵図に「城より南海辺まで一里」(約4㎞)と記されています。干拓が進む前は、現在よりも有明海が佐賀城に近く、干潟など地形上の制約のため外敵の侵入は難しかったと考えられます。
 

語り継がれる、まちづくりの知恵

 直茂公が亡くなっておよそ100年後にあたる元禄年間に、佐賀藩と境を接する福岡藩との間で脊振山をめぐる藩境論争がおきました。この時、福岡藩勢の一部が北部から山を越えて佐賀に侵攻してくることが想定され、佐賀の人たちは、「もし騒乱に及んだら日峯様(直茂公)がお考えになっていた通りになるぞ」と話題にしたと伝えられています(※5)。直茂公の時代につくられた佐賀の町の原型や地名は今も残されています。脊振山争いの時は、実際の戦さには発展しませんでしたが、どうしてこのような町の姿になり、どんな知恵が隠されているのかを語り継ぐことの大切さは今も変わりません。
 

より詳しく知りたい方は
典拠史料

※1 鍋島直茂公の遺言
日峯様(直茂公)の御遺言に任せ、多布施御隠宅を転じて八月三日より寺地御取り立て有り。御法名を直に峯山宗智寺と号され候 …(中略)… この所に寺院御取り立て御遺骸御納り成なるべく兼ねて思し召めし入られ候。御賢慮の義は、これ已後もし乱世にも相成り候はば、他国より必ず佐嘉へ人数を差し向くべき事ある時に、北山筋の義、至て太切の義と思し召され候。右の所へ御遺骸御納り成られ御座候はば、御家中の者共、定めて敵の馬の蹄には懸け申す間敷と覚悟致すべく候。多布施より内へ敵を入れ立て申さず候はば、佐嘉は持ち堪え申すべしとの御賢慮にて候由。たとヘば敵の勢、川上筋より押来る時には、中折口〈天祐寺町口を云う〉より多布施土井筋を敵のうしろへ御勢を差し廻され候御軍法の由、古老の口伝なり」 *「元茂公御年譜」 公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋島家文庫/鍋113-101)/『佐賀県近世史料』第2編第1巻、佐賀県立図書館、平成21年

※2 高岸村に出城、天祐寺建立
「日峯様御代、佐嘉郡高岸村に出城御屋敷御築き遊ばされ、御屋敷番与三左衛門ヘ仰せ付けられ候由訳は与三左衛門儀、高麗御陣御供仕り、所々において御用相立ち、且つまた龍造寺由緒これ有るかたがたにつき、御屋敷番仰せ付け置かれ候由申し伝え候事」/「日峯様多布施御隠居遊ばされ、泰盛院様(勝茂公)御代に相成り、天祐寺御建立遊ばされ候につき、右出城御屋敷弐つに御割りなられ、西半分は天祐寺に相成り、東半分は前條の訳、殊に厚く思し召しを以て与三左衛門へ拝領なされ候段、申し伝え候事」 *「小城家来犬塚喜右衛門由緒書出」公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋島家文庫/鍋711-3)

※3 「御領中郡村附」公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋島家文庫/鍋442-1)

※4 佐賀城から高尾橋・扇町橋(高橋)までの距離
(1)「本丸ヨリ東外曲輪牛嶋大手口迄、道則千弐百四拾四間」…本丸~牛嶋口=1,244間
(2)「東大手牛嶋口ヨリ高尾橋迄、道則四百八拾間」…牛嶋口~高尾橋=480間
⇒(1)+(2)=1,724間
「本丸ヨリ西大手扇町橋迄、道則弐千拾四間」…本丸~扇町橋=2,014間 *「有田均家御書類写(肥前国佐賀城覚書)」公益財団法人鍋島報效会所蔵(鍋島家文庫/鍋015.2-6)

※5 脊振山をめぐる藩境論争
「元禄の頃、背振山を筑前と争論の節、万一騒乱に及び候はば、日峯様(直茂公)御賢察の通りに成るべきかと、諸人讃談し奉りける也」 *出典は※1と同じ

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