8月1日号では舟運として利用された本庄江と佐賀江、9月1日号では長崎街道を紹介しました。今回は舟運と街道という2つの交通体系のつながりを見ていきましょう。
佐賀城下の長崎街道に今も残る江戸時代の道しるべは3本です(下図①~③)。その一本だけに街道の両起点である小倉と長崎に加え、「いさはやとかい場」と刻まれています。「諫早に渡海する場」、つまり有明海を渡るための港(本庄江に沿った場所)の方向を示しているのです。
この道しるべのある長瀬町と港のある本庄町をつなぐ小道一帯は「袖町」と呼ばれました。袖町に架かる橋は木製でしたが、老朽化のため本庄町の住民が私費で耐久性の高い石橋に造り替えています。往来の多い大切な橋だったのでしょう。
長崎街道のルートは、旅人の立ち入りが制限されていた武家地を避けて設定されたため、何度も折れ曲がる複雑な道筋になっていました(9月1日号参照)。本庄江の港に着いた旅人は、すぐ東に行くと武家地を通過することになるため、袖町を通って長崎街道に出た上で、東西どちらかに進むこととされていました。
ところが江戸時代の後半、「抜け道」になる武家地内を通過する人が増え、問題になりました。「旅人の往来は、牛嶋口から街道を通り八戸口に向かうというルールなのに、最近は人足や馬士たちが八丁馬場通りやお堀端、片田江筋などを便利なように通過している」というのです(※)。地図で分かるように、本庄江から舟に乗って来た旅人を運ぶ業者が東に行きたい場合、長崎街道(赤線)を通ると北に迂回して遠回りになるからです。
さらにこの時、「久留米・柳川に向かう旅人を、本庄町から南御堀端筋を抜々と通らせていること」も問題となりました(※)。久留米・柳川方面に向かうためには、東の舟運である佐賀江を利用するか、蓮池に向かう陸路(柳川往還)を用いる場合があったためでしょう。武家地の中でも特に大事なお城に近い堀端を旅人が通ることは好ましくなく、藩は「以てのほか」と言って取締りを強化しています。
佐賀江の港である下今宿町でも問題がおきました。「下今宿町から武家地への入口に番所がなく旅人が武家地に入ってしまう。本来は入口の橋を撤去すべきだが、住民が不便になるため、地元負担で木戸番所を建て、旅人が一切通らないよう見張る」という対策がとられました。
しかし、城下に数ある小道のすべてを封じることは難しかったようで、「街道以外を歩く旅人を見かけたら、街道に出るよう教えてあげなさい」というお達しが出されています。(※)
江戸時代は、近道をしたい旅人と、ルートを規制して城下の安全を守りたい藩とのせめぎ合いがありました。しかし、自由な移動で人やモノの交流が生まれ、文化や経済が発達する側面もあります。
現在、佐賀市内の道路網は便利につながり、路線バスではICカードが導入され、タクシーでのキャッシュレス化も進んでいます。早く目的地に行きたい気持ちや、交通の便利さを求めることは今も昔も変わりませんが、利便性だけでなく、地域の人々や環境に配慮した使い方も心がけたいものです。
(※)出典:泰国院様御年譜地取